【書評】飲鴆止渇

揺碧山の鴆が飛んだ。その鳥、長い頸は鮮やかな常磐、空を切り裂く嘴と目は禍々しい蘇芳、紫黒の毒羽は翼長三里にも達し、人も動物も草木も、国さえも滅失させる。鴆は揺碧国の主都、春柳城に突如あらわれ、忽然と姿を消した。あれから十年だ。

 荘厳な冒頭ではじまる本作は、猛毒の羽を持つ鳥、“鴆(ちん)”が飛んだ十年前を起点とし、十年前と現在を行き来する巧みな語りで構成されている。
 十年前、揺碧国(ようびこく)では民主化運動が起き、政権転覆をおそれた政府は抗議活動を収束させようと躍起になっていた。そんな中、政府によるとある作戦の決行日に、鴆が突如あらわれる。鴆は多くの人間を殺戮し、飛び去って行く。そこから十年の月日が流れ、貧しかった揺碧国は見違えるほどの発展を遂げ、豊かな国へと生まれ変わった。
 ストーリーは、十年前に政府側の軍にいた二人の新兵、ウェンとカルルワを軸に展開していく。向上心を持ち勉学に励むウェンと、空気を読むことがうまくて、口は悪いが世話焼きのカルルワ。同じ場所で、同じ立場で、同じ悲劇を見た二人の未来を、鴆はまったく別のものへと変えていく。鴆の出現によって変えられてしまったのは、二人の未来だけではない。十年後の、豊かになったその国の中心にいるのは、かつては民主運動の中心にいたクーという男だった――。

 舞台となる揺碧国は、登場する人名や地名などから中国を連想させる国家である。しかし読み進めていくうちに、この国が私たちの知っている先進国のどこであっても不思議ではないという気にさせられてくる。科学や医療が日進月歩で発達し、誰もが気軽にさまざまな情報にアクセスできるようになった社会。そこでは手のひらの中のインターネットで繰り広げられる、真とも偽ともつかない文章の羅列を、信か疑か、己の中で判断しながら取捨していかなければならない。強度のある的確な描写によって描き出されるその社会を、私たちは「知っている」と思うはずだ。

「飲鴆止渇」という言葉は、猛毒の鴆の羽が入っている酒を、喉の渇きを癒すために飲むという中国の故事に由来する。転じて、「後の結果を考えずに、目先の利益を得ること」の喩えとして使われる。この意味を知ったうえで読むと、ラストへかけてその言葉が、その言葉の意味するところが、あざやかに浮かび上がってくるはずである。
 と、本来なら紹介記事としてここまでで終わらせる予定だったのだが、この記事を書くにあたって本作を再読した際に、あるテーマから本作を考察したいと考えるようになった。ただ、考察には当然、作品を未読の状態では読んでほしくない内容、いわゆるネタバレが含まれる。そのため、本作既読の読者に向けた考察文はこの記事の後半で読めるようにした。
 
「飲鴆止渇」はkindle版がAmazonで発売中、また『ミステリーズ!Vol.105』にも収録されている。長さとしてはkindleで100頁に満たないものなので、一日あればじゅうぶん読めるはずだ。未読の方はぜひ読んで、それから後半の考察記事を読んでいただければ幸いである。

飲鴆止渇 | 斧田 小夜 | 日本の小説・文芸 | Kindleストア | Amazon
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はじめに

 本作を考察するにあたり、テーマに据えられるべきであろうものは複数思いつく。「情報社会」、「社会主義国家」、それに「文字(とその意味)」についてなどがそれにあたるが、この作品のなかでどのテーマが最も胸に響いたかは、人によって異なるのではないだろうか。
 それほど多面的な魅力をもつ本作であるが、今回は「格差」をテーマにして考察したい。ちなみに、「格差」というワードは作中には登場しない。しかしそれは作品を読めばはっきりとあらわれてくる、本作の重要なテーマのひとつであろう。
 今回は「格差」をテーマに三人の登場人物と、鴆とはいったい何であったのかについて考えたい。

ヤウダ・ウェンの場合

文字を知らなければ、今も牛のまま、なんの希望も抱くことはできなかっただろう。

 十年前、新兵だったころのウェンは勉学に熱心で、向上心に燃える若者だった。ウェンは「牛」になりたくないと思っていた。貧しさに追い立てられ、田畑の泥にまみれる「牛」のままでいたくない。勉学をして「立派なもの」になりたい。ウェンは「牛」になる自分の運命に抗おうとしていた。そんなときに、彼は生まれながら「牛」ではない男、クー・ザルガ・サンガズと出会った。
 清潔感のある服装で、見るからに「エリート」とわかるクーは、ウェンのことを一目で「いつも上で隊列を組んでいる兵隊」だと見抜き、わかりやすい言葉でウェンに教えを説いた。ウェンの故郷を褒め、勉学に励むウェンのことを「すばらしい」と二度も言った。ウェンは生涯、このできごとが忘れられない。自分が「立派なもの」だと思う相手からはじめて与えられた称賛、それを与えてくれたクーという人物。ウェンは「牛」ではないもの、「立派なもの」であるクーに認められたこの日のよろこびを忘れることができないのだ。
 ところで、この当時のウェンが思い描いていた、「牛」ではない理想とは何だったのだろうか? 勉学をした先に、ウェンが望むことは金を手に入れ、故郷の母親や弟に楽をさせてやることだった。家族に不自由のない暮らしをさせ、飯に困らず、田畑の泥にまみれて働かなくてもよくなりたかった。そうした理想の中で、彼がもっとも優先したかったことは、故郷へ帰るということだったのではないか。鴆が来たとき、とっさに隠れた机の下で、ウェンが思ったのは故郷の景色だった。死に最も近づいた状況下で、彼が思いをはせたのは故郷の景色だったのだ。
 十年後のウェンは故郷にいる。故郷で妻であるシアと、息子のツァカタと暮らしている。裕福とは言えないが、暮らしには困らず、息子に十分な教育を受けさせるだけの余裕もある。ウェンは戦士であることをやめた。前進できない、とウェンは言ったが、前進するのをやめたのだ。ウェンは戦士ではなく、「牛」になることを選んだ。そして「牛」であることは、かつてのウェンが思っていたほど悪いものではなく、むしろ戦士でいたらかなえられなかったであろう理想にかぎりなく近い状態と言えるだろう。
 それでもなお、ウェンは「牛」である劣等感を抱えつづけている。息子のツァカタに、運転士ではなく医師になってほしいと思う場面には、彼のそのような思いが反映されている。しかし十年後のウェンにはもう、「いつかきっとここから這い出してやる」という気持ちはない。彼は「村で牛と一緒に鍬を引くのが俺の身の丈ってやつなんだ」と言う。ウェンは前進するのをやめ、反骨精神を捨て、「牛」であることを受け入れることにしたのだ。

ミ・カルルワの場合

鴆が襲来したとき、ウェンは左腕を失ったが、カルルワはなにも失わなかった。

 カルルワは、もともと何も持っていなかった。カルルワは貧しい村の出身だ。そういう意味ではウェンと似た境遇に思えるが、ウェンとちがって彼には勉学への意欲も、向上心もなかったように見える。空気を読むのがうまく、ただその場を盛り上げるためだけに意味のよくわからない言葉を揶揄に変えてみせるような器用な男だが、悪い言い方をすれば感情的で浅慮、そして流されやすい性質だと言えるだろう。
 自ら拠り所とするような情熱や、向上心を持たないカルルワは鴆の襲来時、迷わず任務を放棄し生き延びることを選ぶ。「命はどんな名誉でも贖えない」。カルルワが持っている、持っていることに価値を見出しているのは、その命ひとつなのだということがここで明らかになる。
 しかしそんな彼は、バカにされたくない、という思いだけは一貫して持っているように見える。軍を辞めたのも、軍が尊敬されなくなったからということが理由の一つだ。もともと信念をもって軍にいたわけではないカルルワはあっさり軍を辞めた。その後、彼は賭場で出会った女をきっかけにして、その後の人生でたびたび女へのほとんど憎悪ともいえるようなコンプレックスをのぞかせる。彼は出会う女たちに賭場の女の影を重ねては「バカにしやがって」と罵倒する。やがてカルルワは、現実の女を相手にせずにすむ「匿名チャットアプリ」に行きつく。そこで彼は画面上の女の裸絵に向かって罵倒し、満足することをくりかえす。
 カルルワは十年前の時点から、どこから来るのかわからない自信を常に持っているように見える。ウェンの場合はちがう。十年前のウェンはいつもどこか自信を持てないでいた。民衆を誘導する作戦を聞いたときも、ウェンは失敗することをいちいち不安がる。クーと対面したときも、いかにもエリート風情な彼を前にしどろもどろになってしまう。ウェンがクーに心酔したのは、この自信のなさがあったからだともいえるだろう。
 一方のカルルワは、たとえばウェンを連れて行った病院で、軍医に対して臆することなく罵倒の言葉を投げる。よくわかっていない、しかし強い"文字"である「打倒してやる!」という言葉を吐く。軍医に冷静に対応され、傷の処置を褒められ、ようやく彼は気持ちが落ち着く。カルルワは自分が「下っ端の新兵」であることは自覚しているが、だからといって軍医に褒められた程度のことでは人生を変えるほどの喜びには至らない。
 カルルワは向上心がないと先に言ったが、それは上の者を尊敬する気持ちがないからではないだろうか。尊敬する気持ちがないから、そこへ上っていきたいとは思わない。ウェンとちがってカルルワは身分や位が上の者を、「立派」だとは思っていないのだ。だから平気で罵倒できるし、自分が認められることもある意味当然だと思っている。そのかわり自分が蔑まれたり、理不尽な目にあうことも容認できない。ウェンのように、「牛」であることを受け入れることなど到底できない。そこへ彼の性質である、浅慮で感情的で流されやすい面が悪く作用する。相変わらず意味はとれないまま、文字を「読める」ようになった彼はやがて「情報」に踊らされ、人生を狂わせていくのだ。

俺はずっとまじめにやってきた、とカルルワは思った。でもうまくいかなかった。それが誰のせいなのかはわかっていたが、「誰か」が誰なのかはわからなかった。ところが文字が読めるようになると、またたく間に真実が見つかった。

女の場合、シアという女

 カルルワの女に対するコンプレックスに関連して、本作で注目すべきエピソードがある。それは妻のシアを花嫁として迎えたときの空魚機(ヘリ)にまつわるエピソードだ。
 ウェンの村まで行くために、手配された空魚機の席をめぐってシアは父親と衝突する。シアは「主張して、主張して、とにかく主張する」女だった。彼女は、結婚式で最もえらいのは花嫁なのだから一番いい景色を見ることのできる助手席には自分が座るべきだと主張する。かたや父親は、花嫁の家で一番偉いのは花嫁ではなく花嫁を育てた親であり、家長である自分にこそ助手席の権利があると主張する。
 この諍いは結局、ウェンが知恵をきかせ父親を納得させて丸くおさめる。「山間部の人間は本に弱」く、ウェンの説いた言葉に皆感心し、父親も納得したのだ。しかしそのときウェンが話した内容は、つまるところ、父親のほうが偉いから譲るべきであるということだった。
 ウェンやカルルワの陰にかくれているが、そう多くはないシアの発言内容や描写には、作中世界における女性の立場の低さが垣間見えるものがひじょうに多いことに気がつく。何の説明もなく紙を貼っていた役人に対して、シアは「バカにして!」と憤慨する。役人が何も言わずにいきなり紙を貼っていったのは事実であろうが、「バカにし」たような描写はない。
 この「バカにして!」というセリフで思い出されるのはカルルワだ。彼も女たちにたいして、「バカにしやがって」と憤る。ただ彼の憤りがシアとすこしちがうのは、彼の女への拗らせたそうした憎悪は、どこかで“女ごとき”にバカにされたくない、下に見られたくないのだということに由来しているように思える点だ。賭場の女に対して、もちろんそこに特別な感情があったにせよ、カルルワは虚勢を張る。わからないのに株を続け、恰好をつけてしまう。携帯電話会社の女に対してもそうだ。ここにはカルルワの“女ごとき”にバカにされたくはないという思いと、この社会において男が求められている立ち居ふるまいがあらわれているのではないか。シアの父親にせよカルルワにせよ、彼らのふるまいには男は女よりも優位で賢くあらねばならないという、彼らの社会に染み付いたジェンダーロールを強く感じる。
 カルルワは後には女がすべて自分をバカにしているように錯覚し、「バカにしやがって」と罵倒するようになる。カルルワの「バカにしやがって」も、シアの「バカにして!」も、相手が実際にバカにしているかは問題ではない。この言葉は当事者が、自分はバカにされている、と感じたから出た言葉であるが、カルルワの場合は“女ごとき”にバカにされたくないという尊大な自尊心から、シアの場合は“女ごとき”とバカにされ続けてきたこれまでの経験に、端を発しているように感じる。
 シアに話を戻そう。シアは「主張」する女だと書かれている。

主張をするのが彼女であり、主張をしなくなれば彼女は彼女でなくなる。

「主張」することはシアのアイデンティティであり、それがほかの女と違う点だ。彼女はほかの女のように、黙って見下されたままでいることを良しと思わない。逆に言えば、ほかの女たちは見下されたまま黙っているのが普通であるということだ。

鴆とは何だったのか

揺碧山の鴆が飛んだ。その鳥、長い頸は鮮やかな常磐、空を切り裂く嘴と目は禍々しい蘇芳、紫黒の毒羽は翼長三里にも達し、人も動物も草木も、国さえも滅失させる。鴆は揺碧国の主都、春柳城に突如あらわれ、忽然と姿を消した。あれから十年だ。

 さて、筆者は本考察のテーマを「格差」としたが、本作には次のような二つのステータスが登場する。ウェンの言葉を借りるなら「立派なもの」(役人や、医師、あるいはクーのようなエリート)である存在、それから「牛」(そして牛の中では、文字を読める知識のあるもの、「本」を理解できるようなものがより優位に立つ)だ。二つのステータスの中にはさらに細分化された優劣があり、そしてそのそれぞれの下位にはおそらくそれぞれの「女」がいる。職業、生まれ、知識、それから性別。そうした格差に登場人物たちは振り回され、もがいている。彼らは誰もがこの格差にひじょうに自覚的だ。下位の者は自分は下位であると知っている。自分より下位の者に馬鹿にされることに敏感で、上位の者は自分のことを見下していると感じている。ただし「立派なもの」たちは、格差に自覚的でこそあれ、見下すようなふるまいはしていない。バカにされ、バカにするためには、劣等感やコンプレックスが必要だからだ。「立派なもの」たちはみな、少なくとも作中では、それらを持っていないように見える。そうした足枷を自らに課し、苦しめられているのは下位の者たちばかりなのだ。
 結局「牛」は牛のまま、「エリート」はエリートのままだった。どんなに向上心を持っていようと目の前の家族や生活には代えられない、向学心がなく思慮の浅い者は破滅の道をたどるしかない。
 そんな彼らを、すべてを平等にしたのは鴆だけだった。鴆は「エリート」も、「牛」も、軍もデモ隊も、向学心や文字の知識の有無も関係なく、すべてを平等にその死の翼のもとにおさめた。鴆とは悲愴な災禍でありながら、作中でたったひとつの平等の象徴であるように思う。しかし鴆は飛び去り、ふたたびその姿は見えなくなった。死の翼がどんなに平らかに均そうと、人々の格差はなくならない。
 最後、鴆は去り、揺碧山のいただきは雲で覆われたままなのだ。