【書評】破滅のむこうにかかる虹(『わたしたちの怪獣』久永実木彦)

だれもが傷ついてできた心のひだに怪獣を住まわせている。
わたしたちの怪獣は、自分を守るためなら世界を壊したっていいと思っている。

(「わたしたちの怪獣」より)


 この世界に自分の居場所は用意されていないのだと気がついたとき、「わたしたち」にはふたつの選択肢がある。ひとつは自分を壊してしまうこと、もうひとつは世界のほうを壊してしまうこと。
 けれどもほとんどの「わたしたち」は世界を壊したいと願いながら、世界を壊すことができない。かといって、自分を壊してしまうこともできない。だからしかたなく、壊すのではなく自分自身のかたちを削ったり、すり減らしたりすることでなんとか世界の型にはめていく。
 それが大人になることだ、と表現するひともいるかもしれない。でもそうやって大人になったとしても、削りとられすり減らされたからだの奥のちいさな部屋で、あの頃の「わたしたち」は膝をかかえてうずくまり、うらめしそうにこちらを見ている。その視線に気づかないふりをすることが、だんだん上手になっていく。でも本当の意味で忘れることは絶対にできない。どんなにふりが上手にできるようになったとしても、わたしたちは「わたしたち」であることからは逃げられない。

 久永実木彦著『わたしたちの怪獣』に収録されている物語は四つ。
 妹が殺してしまった父親の遺体を怪獣の暴れる東京まで捨てにいく表題作「わたしたちの怪獣」、タブーをおかした時間移動者を描いた「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」、ままならない現実を生きる女子高生が吸血鬼と邂逅する「夜の安らぎ」、ゾンビから逃れ映画館に立てこもる「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」。いずれの話にも、この世界をノット・フォー・ミーとする「わたしたち」が登場する。

「この世界でまともにいられるやつのほうが異常なのさ。おれたちふたりだけが正常で、ほかのやつらはみんな異常なんだ。」

(「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」より)

「いつだって現実も、世界も、わたしを拒絶してきたじゃん……普通に生きられないようにしてきたじゃん!」

(「夜の安らぎ」より)

「わたし、最高だなって感じてしまったの。やっと現実が壊れてくれたんだなって。日常がめちゃくちゃになってくれたんだなって。でも、人が死んでいくのを見るのは最低だった。(中略)わたしはいま、最高で最低の気分なの」

(「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を観ながら」より)


 世界は「わたしたち」を拒絶している、だから「わたしたち」も世界を拒絶したいだけなのに、それをすることすら許されない。
 収録作のなかでも、表題作と「夜の安らぎ」の主人公、ふたりの少女がかかえる絶望はひときわ胸を打つ。それはなんて幼くて、独りよがりで、それゆえに切実で、孤独な絶望だろう。少女たちの絶望は、わたしたちが見ないふりをし続けてきた小部屋のドアを、殴りつけるように乱暴にノックする。

 物語のなかで、絶望の淵に立たされた「わたしたち」であるかれらは破壊しなければならない。世界か「わたしたち」か、どちらかを。そしてかれらは破壊する。これでようやく終わり。「わたしたち」はそうやって、絶望のむこうの破滅へとたどりつく。でも絶望の向こうにあるのが破滅だとしたら、破滅のむこうにはいったい何があるんだろうか。

 『わたしたちの怪獣』を読んだとき、破滅のむこうに虹をみた。その虹は、あるときはオーロラのようで、あるときはZ級映画のエンドロールのようだった。うっかり希望とよんでしまいそうになるほど眩いその虹は、けれど希望よりも祈りに似ていた。
 あなたやわたしの抱える「わたしたち」はいつも孤独で、ひとりぼっちで、世界から拒絶されている。だから「わたしたち」はめぐりあうことができない。だけど物語のなかでなら、わたしたちは自分以外の「わたしたち」と出会うことができる。かれらが破滅のむこうに架けてくれた、虹の光をみることができる。その光がいつかの「わたしたち」を照らしだしたとき、わたしたちはようやく「わたしたち」を抱きしめてあげることができるのだ。



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